宇和島の真珠養殖の歴史
愛媛県宇和島市と愛南町近辺に広がる宇和海は、日本トップクラスの真珠生産地です。
2019年には、真珠の全国生産量の41%を愛媛県で産出しており、名実ともに日本一の生産地となっています。
ここでは、そんな宇和海での真珠生産の歴史と、その特徴を解説して行きます。
『えひめ発 真珠ものがたり』 中国四国農政局愛媛統計情報事務所編 愛媛農林統計協会、
海面漁業生産統計調査(https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/kaimen_gyosei/index.html)より
えひめの水産統計「真珠養殖」(http://www.pref.ehime.jp/h37100/toukei/index.html)より
- 宇和海での養殖の始まり(1907年〜1929年)
- 戦前の宇和島真珠(1930年〜1945年)
- 戦後の真珠養殖(1945〜1955)
- 三重からの業者が進出(1956年〜1961年)
- 地元の真珠養殖業者の増加(1962年〜1966年)
- 真珠不況(1967年〜1972年)
- 真珠不況の原因
- 不況からの復活(1973年〜1984年)
- 日本一の真珠生産地
- バブル期(1985年〜1995年)
- アコヤ貝大量へい死からの真珠不況へ(1996年〜2000年)
- 安定期から現代へ(2001年〜2020年)
- 現在の稚貝大量死問題(2021年2月現在)
- 宇和島真珠の特徴
宇和海での養殖の始まり(1907年〜1929年)
小西左金吾(1879~1941)
1907年(明治40年)頃、
小西左金吾という宇和島生まれの青年が、三重から海女を数名雇い、宇和海で天然真珠の収穫を始めます。
宇和海に生息するアコヤ真珠が、とても美しい真珠を生み出すことに注目してのことでした。
その頃は、御木本幸吉らが三重で、真円真珠の養殖を始めた時代です。
三重での成功を追いかけるように、小西左金吾は、宇和島での真珠養殖を目指すことになります。
1913年(大正2年)、
真円真珠研究の第一人者である藤田昌世の協力を得ることに成功した小西左金吾は、
愛媛と高知の境目である宿毛付近に養殖場をつくり、真珠養殖を本格的にスタートします。
この養殖場で、小西左金吾は美しい真円真珠を生み出すことに成功し、宇和島真珠の美しさを日本中に知らしめたのです。
しかし、1929年(大正9年)8月15日、
宿毛付近に大洪水が発生し、小西左金吾の養殖場は壊滅的な被害を受け、真珠貝は全滅してしまいました。
小西左金吾は、失意のうちに宇和島を去ってしまいますが、彼の名は宇和島真珠のパイオニアとして歴史に名を刻んでいます。
戦前の宇和島真珠(1930年〜1945年)
その後、小西左金吾の事業を受け継いだ、大月菊男、向田助一、向田伊之一などが、宇和海の漁場で高品質真珠を産出し、宇和島の真珠は次第に有名になっていきます。
しかし、第二次世界大戦に突入し、真珠は贅沢品として生産を禁止され、宇和島の真珠生産は休止状態となってしまいました。
戦後の真珠養殖(1945〜1955)
1948年(昭和23年)に再開された宇和島の真珠養殖は、順調に生産量を伸ばしていきます。
この頃は、大月・向田の2つの養殖場が、宇和海真珠養殖の中心的役割を果たしていました。
三重からの業者が進出(1956年〜1961年)
1955年(昭和30年)頃、
三重県では、真珠養殖業者の急増加により、漁場が過密となり、真珠貝の大量死や品質の低下が発生していました。
そこで、三重の業者は県外への進出を計画します。その進出先となったのが、著しい成果をあげていた愛媛の海でした。
県外からの業者の流入を受け、宇和海での真珠養殖は、急成長を遂げていきます。
1961年(昭和36年)には、
真珠生産量で、三重県に次ぐ第二位の生産量を挙げるようになります。
地元の真珠養殖業者の増加(1962年〜1966年)
えひめの水産統計「真珠養殖」(http://www.pref.ehime.jp/h37100/toukei/index.html)より
真珠養殖は、真珠貝を育てる母貝業者と、真珠貝を使って真珠を作る養殖業者とに分かれています。
真珠養殖の急拡大にともなって、
真珠貝を育てる母貝の生産が、宇和島の地元漁民の手によって始められ、大きな利益を生み出しました。
増加していく母貝養殖業者は、ハイリスクながら、より高い利益を生むことが可能な、真珠養殖業者への転換を希望するようになります。
しかし、真珠養殖をするために漁場を使うには、県の認可が必要です。
数多くの地元業者の要望の声に応え、
1962年(昭和37年)、愛媛県が、真珠母貝養殖から真珠養殖への転換を許可します。
これにより、戦前からの大規模業者と、三重県などの県外からの業者に占められていた真珠養殖事業に、
地元の中小事業者が数多く参加することとなり、真珠王国愛媛の基礎が築き上げられることとなりました。
真珠不況(1967年〜1972年)
アコヤ真珠の海外への輸出は、戦後、右肩上がりに成長を続けてきました。
ところが、1967年(昭和42年)のはじめに、戦後では初めて輸出価格が下落。
その後も下がり続け、1967年前半には、本格的な真珠不況の様相をあらわしてきます。
1967年秋の真珠価格は大暴落し、その後5年もの長きにわたり、真珠不況が続きます。
愛媛の真珠養殖業界は壊滅的な打撃を受け、三重県から進出してきた業者の中では、倒産、撤退が相次ぎます。
真珠不況の原因
業界に壊滅的な打撃を与えた真珠不況は、真珠生産量が無秩序に増え続けたことによって起こったといわれます。
増え続ける生産物に対しては、質量両面での規制が必要です。つまり以下の2点です。
- 品質を下げないこと
- 生産量をコントロールすること
1967年の真珠大不況のときは、これとは逆のことが起こります。低品質のものを含む、大量の真珠が市場に出回ったのです。
海外のバイヤーは日本産真珠に対して不信感を抱いて買い控えをし、階段を転げ落ちるような価格の下落を招きました。
不況からの復活(1973年〜1984年)
1967年(昭和42年)からはじまった真珠不況は、1972年頃(昭和47年)頃には元の水準に回復するようになりました。
業界全体による、真珠生産量の減産と、余剰真珠の保管調整により、価格が安定して真珠への信頼が回復されたためです。
不況期に、全国では多くの真珠業者が、転業、廃業することになりました。
それにくらべて、宇和島の真珠業者は、転廃業が比較的少なく、
不況が終わったあとの回復期において、めざましい発展をとげていきます。
愛媛の真珠生産者が不況を耐え抜き、発展を遂げた理由は、以下のような理由があげられます。
- 家族経営の小規模生産者が多かったこと
- 小規模生産者には、漁協・漁連の指導が行き届いたこと
- 効率的な中サイズの真珠を生産していたこと
- 母貝の大生産地であり、安く母貝を購入できたこと
- 真珠養殖に適した、美しい漁場があったこと
三重から来た業者の多くが撤退したことで、この後は、地元の中小業者を中心とした生産が行われていきます。
日本一の真珠生産地
1974年(昭和49年)、愛媛の真珠生産量は、三重県を抜いて日本一の座に躍り上がりました。
その後は、一時を除いて、全国一位の生産量を誇っています。
バブル期(1985年〜1995年)
『えひめ発 真珠ものがたり』 中国四国農政局愛媛統計情報事務所編 愛媛農林統計協会より
『えひめ発 真珠ものがたり』 中国四国農政局愛媛統計情報事務所編 愛媛農林統計協会より
えひめの水産統計「真珠養殖」(http://www.pref.ehime.jp/h37100/toukei/index.html)より
1970年代から、真珠生産量、生産額は順調に増え続け、1980年代には、後にバブル経済と呼ばれる好景気に突入します。
1970年後半から1990年代初頭まで、宇和島の生産者は多大な利益をあげ、地元は好景気にわきました。
しかし、1991年(平成3年)のバブルの崩壊から数年遅れて、真珠価格は下落していきます。
アコヤ貝大量へい死からの真珠不況へ(1996年〜2000年)
バブル崩壊に続いて、宇和島の真珠養殖に歴史的な危機が訪れます。
1996年(平成8年)からはじまった、アコヤ貝の大量へい死です。
1994年(平成6年)、宇和海と大分の一部の漁場で、原因不明のアコヤ貝へい死が確認されます。
1996年(平成8年)には、へい死は愛媛全域および全国へと広がり、愛媛の養殖真珠のうち、20%〜50%がへい死したと言われます。
当時は様々なへい死の原因が検討され、真相は長いあいだ不明でしたが、
15年以上の研究の結果、現在では、ウイルスによる感染症が原因だったと言われています。
アコヤ貝大量へい死により、愛媛県の真珠生産量は、全盛期の三分の一以下に落ち込みました。
さらに、生産量の減少にも関わらず、販売単価も下落します。
販売単価の下落には、バブル崩壊の影響とあわせて、
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災で、神戸に集中する真珠商社や真珠加工業者が被災した影響もあると言われています。
この時代、アコヤ貝大量へい死や、生産量生産額の減少にも関わらず、愛媛の真珠養殖業者数の減少は、20%程度に留まりました。
苦難の時代にも、愛媛の養殖業者は、真珠養殖を続けていきます。
安定期から現代へ(2001年〜2020年)
『えひめ発 真珠ものがたり』 中国四国農政局愛媛統計情報事務所編 愛媛農林統計協会より
えひめの水産統計「真珠養殖」(http://www.pref.ehime.jp/h37100/toukei/index.html)より
真珠養殖業者の様々な努力により、2000年頃には、アコヤ貝のへい死は減少します。
2001年(平成13年)には、全国の真珠生産量で、再びトップの座に帰り咲きます。
その後、宇和島の真珠養殖は、
全盛期の半分程度の生産量、生産額になりながらも、以後大きく数字を下げることなく、
順調に美しい真珠を生産し、日本トップの生産量を誇ってきています。
海面漁業生産統計調査より(https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/kaimen_gyosei/index.html)
現在の稚貝大量死問題(2021年2月現在)
比較的安定した状態が続いていた宇和島の真珠養殖業に、新たな危機が到来します。
2019年、三重と愛媛で育てられていた真珠稚貝に、原因不明の大量死が発生したのです。
更に、2020年も同じような状態で稚貝のへい死が発生してしまいます。
幸い、真珠養殖に使う大人の貝に大きな被害はありませんでしたが、
2021年2月現在でも、原因は不明であり、確かな解決策はみいだされていません。
このまま稚貝の大量へい死が続けば、真珠生産に使う母貝が不足し、生産量が減少することは避けられません。
へい死の統計、原因の追求は今後の大きな課題です。
新たな危機に見舞われた宇和島の海ですが、危機を乗り越え、今後も美しい真珠を作り続けていくことを願っています。
宇和島真珠の特徴
宇和海が、養殖真珠発祥の地三重県をぬいて、全国一の真珠生産量を誇るようになったのには、以下のような理由があるかと思います。
- 真珠生産に最適な、リアス式海岸にかこまれた美しい海であること
- 真珠養殖に使う母貝の日本一の産地であり、地元の母貝をそのまま使えること
- 家族経営の小規模事業者が多く、きめ細かい養殖技術を持ち、不況につよいこと
特に、真珠養殖に携わる人々の、長年積み重ねてきた技術は素晴らしく、正に日本技術の宝物だといえます。
個人経営体による、地域コミュニティを活用した「ここでしかできない」価値の創出は、地方創生のモデルとしても注目されています。
以上、宇和島の養殖真珠の歴史について解説していきました。
参考文献
『愛媛県真珠養殖漁業協同組合史 -組合発足20周年記念-』
愛媛県真珠養殖漁業協同組合,1980『真珠産業史 真円真珠発明100年記念』
真珠新聞社,2007『宇和海における真珠養殖の変遷』
鳥飼行博,東海大学紀要. 教養学部 (49), 21-90, 2019-03-30『えひめ発 真珠ものがたり』
中国四国農政局愛媛統計情報事務所 編 愛媛農林統計協会愛媛県生涯学習センター ウェブサイト
データベース『えひめの記憶』 わがふるさとと愛媛学Ⅲ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~ ワークショップ 日本一の真珠養殖(村上昭四郎)
データベース『えひめの記憶』愛媛県史人物(平成元年2月28日発行)
アメリカ宝石学会公認鑑定士(GIA.G.G.)
Gemological Institute of America Graduate Gemologist
ダイヤモンド卸、宝飾メーカー勤務を経て、創業60年の老舗、井上真珠店に勤務。現在は暖簾分けされた宇和島イノウエパールの代表。
パール専門小売店にて「お客様一人一人と向き合う接客」をモットーに、お客様の希望や体型をヒアリングの上、仕入れから最終仕上げまでを行い、累計1,000本以上のネックレスを販売してきました。